心はどこにあるのか
心のない奴って、すぐに「心を込めて」とか口にしますよね。自分が心について理解が深いと思い込んでる馬鹿は、脳が足りないから心とか曖昧な言葉を使って、説明できない単語を心で補うように、都合の良いものとして、心を扱う。そんな人間は、心を本質を知るわけもなく、愚かな奴らに限って「心を込めて」だなんて言えるわけなんだ。
心は所詮、脳の作り出した概念であると思う。しかし、心は堅苦しいものじゃなくて、温かみのある優しいものじゃなくてはならないと、人は言う。そのギャップこそが、「心のありか」であり、心がモノの曖昧さを表すものであると思う。
結局のところは、言葉で説明しきれない概念を人間は逃げ道を作って、「心」と呼称する。
蛇足。一つ言えるのは、心とか絆とか多用する人間は、総じて馬鹿と言える。心とかの話以前に、言葉の扱い方幼稚であるとわかる。
人の判断材料として、「心」は優秀であると言える。
心を道具として扱う自分の心はどうなのか気になるところだ。
狂った人間と正気な人間の見え方
頭のおかしい人を、みんなして頭おかしいって言う。
正気な考えで、みんな頭のおかしい人間を虐めあげる。
自分が正気である証明をするように、共通の敵を作って、自分は正しい気があると納得させようとする。
社会生活の中で、互いに嘘をつきあって、顔色を伺いながら、駆け引きだらけの茶番劇をする人たち。
そこに現れる狂った人間は、茶番劇に水を刺す余計なエキストラ。
筋書きにないキャストを自分のストーリーから弾こうとしたり、活かそうとする。
そうやってみんな、自分にとって得のない人間を排除する。
これで、狂った人間の出来上がり。