人について考えるブログ

正しさと本物にを基準に、日々の思ったことを綴ろうともいます。よく考えが変わりますが、気にしないでください

心はどこにあるのか

心のない奴って、すぐに「心を込めて」とか口にしますよね。自分が心について理解が深いと思い込んでる馬鹿は、脳が足りないから心とか曖昧な言葉を使って、説明できない単語を心で補うように、都合の良いものとして、心を扱う。そんな人間は、心を本質を知るわけもなく、愚かな奴らに限って「心を込めて」だなんて言えるわけなんだ。

 

心は所詮、脳の作り出した概念であると思う。しかし、心は堅苦しいものじゃなくて、温かみのある優しいものじゃなくてはならないと、人は言う。そのギャップこそが、「心のありか」であり、心がモノの曖昧さを表すものであると思う。

 

 

結局のところは、言葉で説明しきれない概念を人間は逃げ道を作って、「心」と呼称する。

 

 

 

蛇足。一つ言えるのは、心とか絆とか多用する人間は、総じて馬鹿と言える。心とかの話以前に、言葉の扱い方幼稚であるとわかる。

 

人の判断材料として、「心」は優秀であると言える。

 

心を道具として扱う自分の心はどうなのか気になるところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狂った人間と正気な人間の見え方

頭のおかしい人を、みんなして頭おかしいって言う。

 

正気な考えで、みんな頭のおかしい人間を虐めあげる。

 

自分が正気である証明をするように、共通の敵を作って、自分は正しい気があると納得させようとする。

 

社会生活の中で、互いに嘘をつきあって、顔色を伺いながら、駆け引きだらけの茶番劇をする人たち。

 

そこに現れる狂った人間は、茶番劇に水を刺す余計なエキストラ。

 

筋書きにないキャストを自分のストーリーから弾こうとしたり、活かそうとする。

 

そうやってみんな、自分にとって得のない人間を排除する。

 

これで、狂った人間の出来上がり。